メルト


「……もー書けたかよ?」
部誌と睨めっこしながら数分間固まっている三橋に呆れ顔で話しかける。部誌が全然書けてないのは、その手元を監視し続けている阿部には明らかだった。
「ひうっ!?」
三橋の身体が硬直し暫く止まった後、ギ、ギギg と音がしそうな固い動作で声の方を見遣る。ちらっと視線を上げて目が合うと慌てて逸らした。
「ご、ごめんな さ」
「謝る暇あるなら、さっさと手ぇ動かせ」
「は、はひぃっ!」
抑揚の無い阿部の声音に全身をブルブルさせつつ、三橋は部誌の前にシャキーンとシャーペンを構え向き直った。

しかし、暑い。身体も脳みそも溶けそうだ。
三橋の思考が止まってしまうのも仕方ないと思えるくらいに、部室内は暑かった。
空調も何も無い室内は窓を開け放っていても、全く夜気が流れてこない。戸を開け放ちたいところだが、網戸無しだと部屋の明かりに誘われて虫が飛び込んでくるので、それは出来なかった。
一度、田島が戸締り当番だった時にそれをやってしまい、翌朝は殺虫剤が充満した部室で着替える事が出来ずに、皆外で着替えたのだった。
温度と湿度が南国な空気の中では当たり前のように部誌の上へ汗がパタパタと垂れた。紙がふやけるの慌てて手で擦る三橋を横目で見、阿部はタオルを取り出してその頭に被せた。
「うあっ」
「汗、そんで拭いてろ。使ってねーし」
「あ ありが、と……」
習性なのか、クンクンと未使用タオルの匂いを嗅いでから首周りの汗を拭き出した三橋に苦笑いし、あっちーな と独り言ちて阿部は畳へと仰向けに寝転がった。
シャツ越しの畳が徐々に体温を吸い取っていく感覚が、地味に心地いい。汗を拭った事で落ち着いたのか、三橋は部誌に向かってシャーペンを走らせ始めた。
目を閉じれば眠りそうだったので天井を睨み付け眠気を耐える。何かする事があればいいのだが、取り立てて今は何もする事がない。
読んでいない野球雑誌が転がっているかとそこらを見渡してみたものの、既に読んでしまったものばかりだった。田島が置き忘れていったエロ本が未読だったが、こんなクソ暑い中で読む気にはなれない。
なんともなく鞄を漁ると携帯が手に触れ、阿部はそれを手に取った。他の奴らが携帯でサイトを見たりゲームをしているのを見た事はあっても、実際に自分でやったことはない。
携帯は話せてメールが出来ればそれでいいと、割り切っていたからだ。
メールでの整理でもするかと携帯を開けたが、整理するほどの履歴がない事に直ぐに気付き、苛立たしくそれを閉じようとした。
が、何やら思い直して阿部は携帯に打ち込みだした。

「ぅ……ん?」
もう少しで書き終わりそうになり大きく伸びをした拍子に、阿部が寝転がって携帯を打っている様子が目に留まった。携帯を触っている姿を見るのは初めてかもしれなかった。
どうやらメールを打っているようだが、三橋の位置からはその内容なんて分かる訳もない。
どさっ
無意識にその手元を覗き込もうとした三橋は伸びをしたポーズのまま、畳に倒れこんでいた。
「何やってんの?」
「え、ふ ぬぁっ!?」
寝転がっている阿部と顔の距離が意外に近くて、三橋は慌てて飛び起きた。
「もう書けたんか?」
「も、もも もうちょっ、と」
携帯に目を遣ったままに話しかけられ、その違和感に戸惑いながら三橋は答えた。声のトーンがあからさまにおかしいのに阿部は気にする風もなく、携帯と向き合っていた。
「あと少しなら、さっさと書いちまえ」
「う、うん」
阿部のメールは簡潔で短い。多分打ち込むのに一分も掛かってはいないぐらいの長さだ。それなのに今は真剣な表情で携帯を見つめ、時折指を動かしている。
「(……誰宛てなのか、な?)」
部誌はあと少しなのに、その送信先が気になって三橋の手は止まってしまっていた。シャーペンが動く気配が無くなって数分後、漸く阿部は顔を上げた。
「なに?」
「あっ…うぇ…えっ と」
こっちを見て欲しかった筈なのに、訊きたかった筈なのに、いざそうなると上手く言葉が出ない。それでも何度も唾を飲み込み、何とか三橋は問う声を出した。
「め メール、打ってる の?」
「あぁ」
投げ遣りな声音で返答して直ぐに携帯に視線を戻した阿部に、「誰に?」と更に問う勇気は持てなかった。もやもやを抱えたまま、三橋はこっそりため息を吐いて部誌へと向き直った。


「で、で できた、よー」
送信先が気になりながらも何とか部誌を仕上げ、依然寝転がったまま携帯を見ている阿部へ三橋は恐る恐る声を掛けた。
「おー、じゃー帰るか」
ムニムニムニと何やら携帯に打ち込み、それをパチンと閉じて阿部は勢いよく起き上がった。正座したままマジマジとこっちを見詰めている三橋を怪訝そうな表情で見返すと、途端に三橋は視線を彷徨わせた。
「……なんなんだよ、ほら荷物」
自分の鞄を担ぎ、三橋の鞄を差し出す。
「あ、あ ありがと」
それを三橋はおずおずと受け取り、気にする風もなく部室から出ようとする阿部の後を慌てて追いかけた。
「鍵」
「だい、じょーぶっ」
覚束ない手元でがちゃがちゃと部室に鍵を掛けて阿部に向き直ると、何故かくすぐったそうな表情をしていたので三橋は目を丸くした。
そんな三橋の顔を見て、阿部は照れくさそうに俯き背を向ける。
「行くぞ」
「う、うんっ」

風のない静かな夏の夜。重く纏わり付く暑苦しい空気は、自転車に乗ってしまえば嘘みたいに軽くなった。
いつもなら何かしら話しかけて来る役割の阿部が無言で自転車を漕いでいるので、二人の間には会話はない。そしてメールの送信先の事で三橋の頭の中は一杯だったが、その事を上手く切り出せずにただ黙々と阿部の背を見ながら自転車を漕ぐ。
会話無く漕いでいた所為か、いつもより早く家路の分岐に辿り着いた。そこで一旦自転車を止めて、阿部は同じく自転車を止めた三橋へと振り返った。
「じゃー、気を付けて帰れよ」
「あのっ、あぁ あべく、ん……」
「何?」
外灯の光の外にいる三橋の表情は翳っていて、阿部からははっきりとは見えない。が、心情が揺れているのは声音で分かる。阿部が自転車を返して近くに寄ろうとする前に、三橋が口を開いた。
「あ、のっ めっめめ めっ」
「?」
訝しげに聞き返そうとしたが、三橋は一生懸命言葉を続けようとしていたのでそれを待った。三橋は深呼吸をしてから、ぐぎゅっと唾を飲み込んで口を開いた。
「めっめ めーーーる、が気に なっ、て」
「メールって、……ああ」
多分顔は真っ赤になっているのだろう肩で息をしている三橋を見て、阿部はこっそりと照れの入った苦笑を堪えた。
なんだアイツ、オレが誰かに長文メール打ってるのが、気になってたのか?
緩む口元を無理矢理引き締めて、何でもない風に阿部は前へ向き直った。
「お前が、気にすることは何もねーよ」
じゃ と片手を振りつつ自転車を漕ぎ出した阿部の後姿を、三橋はぽかんと見送るだけだった。こんなに何もフォローがないなんて。
「き、気に するな っても……」
思わず独り言ちていた。腹が立つというよりもじわじわと悲しくなってきて、三橋は目をぱちぱち瞬かせた。
ふぬーっと大きく溜息を吐いて悲しいのが全身に回る前に自転車を漕ぎ出そうとしたら、尻ポケットに入っている携帯がブルブルと鳴った。慌てて取り出すとメール着信を示すランプが点滅している。
「おかーさん、かな?」
まだそんな遅い時間じゃない。首を傾げながら携帯を開けて送信元を確認して、それを取り落としそうになる。阿部からだった。
さっきの携帯と同じくらいブルブルする手元で、何とか三橋は新着メールを開けた。

『タイトル:お疲れ』
『家に着いた頃に送ろうと思ってたけど、気にしてるようだったから先に送っておく。』

との文章の後に続くのは今日の練習についての感想、所謂部誌に書き込む内容で、そしてその1/3は自分についてのコメントだった。
『バテてくると腕だけで投げてしまう癖は殆ど無くなった。全身を使ってという意識は投球時いつも持っているようだ。』
「(何だか オレの、観察日記 みたい、だ……)」
自分は阿部の事を練習中こんなに見ているだろうか?と自問して、三橋は直ぐ心の中で首を横に振る。嬉しさと気恥ずかしさでぐるぐるしながらも、最後までゆっくりとスクロールしながら噛み締めるように読む。
定期的に読み返して今日の自分よりも上達しているかを確かめよう、と三橋は思った。
「あれっ?」
文章の終わりなのに、まだスクロールの余白がある。バーを下に動かすとまた文字が出てきた。
『追記:』
『今度、………』
スクロールエンドになった画面のまま、三橋は思いっきり赤面して数分間そこに立ち尽くした。心臓から全身が溶けてしまいそうな感覚にくらくらする。次に両親が居ない日は、いつだっけ……?
お腹がぐるるるるーっと鳴って我に返った。
メールの返信はご飯を食べてからにしようと、三橋は携帯を尻ポケットに突っ込んで勢いよく自転車を漕ぎ出した。
【完】

07/21/08
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現実逃避にしても甘すぎて死にそうに……ボスケテ!


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