註:『カッコウの巣の上で』では阿部が子供を育てています。オリジナルキャラも出てきます。 それでも大丈夫な方はスクロールしてご観覧下さい。連載になります。 カッコウの巣の上で 1 「ぱぱ、きょーのごはん なに?」 「きょうは、カレー」 「か、かれー?」 「そーだ、カ・レ・ー・!」 住宅街をママチャリで全力疾走しながら、近所迷惑になりそうな大声で阿部は叫んだ。すれ違う人々がそのママチャリを思わず見送って、そして知らず微笑む。 カゴにはビジネスカバンと畳まれた背広、首には保育園送迎の身分証明と解き掛けのネクタイ、背中にはヘルメットを被ってチャイルドシートに座った園児がしがみついている。 「きょう、ね かけっこして ね、いちばん だった!」 「一番!すげーな!!」 「うん!いちばん、びりー!」 「ビリ!……か、ああ、でもコケたりしなかったんだろ?スゴい!」 「こけな かったあー!ぜんぶ、はしった!」 「えらいっ!」 阿部は周囲の目などモノともせず、風に流される言葉を背の子に届けようと声を張り上げる。自転車を漕ぐペースを崩さずに声を張り上げているものだから、喉が直ぐにいがらっぽくなった。 しかし、スピードを落とす訳にも会話を途切れさせる訳にもいかなかった。 なんせ子供とこうしていられる時間は後4時間もなくて、そして今日の特売品は鳥腿肉30%オフだ。絶対ゲットしないと計画通りのチキンカレーが作れない。 夕方の買い物ラッシュが少し過ぎたスーパーに自転車を停め、後ろの子供を下ろし、自分もしゃがみ込んだ。子供の顔を覗き込むとニコッと笑いかけられ、反射的に表情が緩む。 「いーか、おんぶとかだっことかしてやれねーから、絶対手ぇ離すなよ」 「うん!」 手を差し出すとしっかりと握り返された。その柔らかく小さな掌を阿部は指で包み込む。背丈差が阿部の体勢を左に大きく傾けさせ、阿部はその格好のまま買い物籠を右手で持った。 最初に特攻するのは入り口近くの野菜売り場ではなく、奥の肉売り場だ。カートを押してる奥様方の合間を器用に縫いつつ、阿部と子供は目的地へと突き進んだ。 【本日特売】と、赤く大きく書かれた看板の下のフリーザーの周りに客は疎らで、積み上げられたトレーも見当たらず、それを見て阿部はあからさまにガッカリして肩を落とした。 そんな阿部を見上げた子供は繋いでいた手から抜けて、フリーザーへと走り寄った。 「おいっ」 制止の声にも振り向かず、フリーザーの縁に掴まって中を覗き込んだ子供は、すぐさま嬉しそうな声を上げた。 「おにく、あった!」 「え、マジ?」 阿部が慌ててフリーザーに駆け寄ると、縁の近くに鳥腿肉が入ったトレーが数枚まだ置かれているのが見えた。遠目からは分からない訳だ。 「おっし!」 一番肉が新鮮そうなのを選んで籠に入れて阿部は片手でガッツポーズをした。その右手のグーを子供は両手で包み込んでブンブン楽しげに振る。 「ないぴ?」 「ナイピ!」 にーっと二人で笑いあう様子は第三者から見ても、何とも幸せな光景だった。買い物客も店員も毒気を抜かれた表情で二人の様子を見守っている。 阿部の拳をブンブン振るのに飽きたのか、子供は包んでいた両手を離してシャツの袖を引いた。 「ぱぱ、い、んじん!かわないと、だ」 「ニ ン ジ ン、だろ?」 顔を近づけてゆっくりと発音して聞かせる。子供は真面目な顔でふんふんと頷いて、阿部の発音を真似た。 「にーんーじーんっ!」 「そうそう」 「うさぎさん が、すきぃー」 「ああ、そうだな」 ウサギの真似をして跳ね回ろうとするのを腕の中に押さえ込める。阿部の髪の毛が柔らかな頬に触れて、子供はくすぐったそうに声を上げて笑った。 ほぼ完売している特売品の前に人だかりが出来る。その原因が自分達である事に漸く気付き、阿部は慌てて子供の手を引きその場を離れた。 ***** 「ぱぱ、まだー?」 足元で子供が背伸びをしながら鍋をかき回している阿部の手元を覗き込もうとしている。届く訳がない距離だと分かっていても、そうして見たがる。 自分のズボンを掴んで何度も何度も爪先立ちをしては踵を落とす、その動作が可愛くて仕方ない。 抱き上げて、色素の薄いほわほわのくせっ毛に顔を埋めて思いっきりその小さな身体を抱き締めたいが、そんな事をしていては鍋の底が焦げてしまうのは明白だった。 料理中にじゃれあって食材をダメにした、既に阿部は前科持ちなのである。 「もーちょい。スプーンとコップをちゃぶ台に出してくれっか」 「はーい」 足元の温もりが去り、斜め後ろの食器棚がカチャカチャと小さな音を立てる。スプーンもコップも取り出し易い所に置いてある。子供が食器を引っくり返す恐れは無かった。 「おいたー」 との声に振り返ると、ちゃぶ台の上には大きいスプーンと大きいコップ、小さいスプーンと小さいコップが対になってきちんと置かれていた。 「サンキュー、もう出来るからな。座ってな」 「うんっ!」 『……回の表、……の攻撃打者は……です』 子供がテレビのリモコンを押したのだろう、アナウンサーが実況している声が、突然背後から阿部の耳に届いた。 年に相応しくなく野球中継が好きなのは、間違いなく阿部の所為だ。聞きなれたチーム名に鍋をかき回す手が一瞬止まり、またさっきと同じように動き出した。 「(ああ、今日も登板してんだっ、け)」 ちらっと朝に目を通しただけのテレビ欄を反芻しながら、阿部は火を止めて炊飯器の蓋を開け皿にご飯をよそった。まずは小さな深皿に半分、そして大きな深皿に2/3程度。 そしてそれぞれの皿に出来上がったばかりの、子供が一口で食べられる大きさの具がゴロゴロしているカレーをたっぷりと掛ける。 具材はメインの鶏肉と定番のジャガイモ・タマネギ・ニンジンに、カリフラワー・トマト・アスパラも入っている。阿部曰く『サラダ要らずカレー』である。 「出来たぞー」 阿部の声がするや否や、野球中継を夢中で見ていた子供は跳ねるように立ち上がると、阿部へと駆け寄り手渡された自分の皿を大事そうに受け取った。 「熱いかんな、皿のぶ厚いとこ持つんだぞ」 「も、もって る」 ゆっくり、ゆっくりとテーブルへと慎重に歩を進める子供を見守りながら、阿部も自分の皿を持ち、その後へと続く。 子供との共同生活は3年近くにもなり、言葉の足りない相手とのコミュニケーションも大分とスムーズになってきた。 不慣れだった料理も電子レンジを駆使して下ごしらえから1時間も掛からず夕飯を作れるようになったし、甘口のカレーの味にも慣れた。 そして夕飯を作りながら、同じ食材を明日の弁当にする技も磨いた。明日の弁当のおかずはベーコンの肉じゃがとアスパラ入り玉子焼きとプチトマトだ。 同僚達が楽しげに飲みに繰り出すその横を走り抜け、子供を預けている保育園に迎えに行く。自分の元へ駆け寄る子供の笑顔は、酒なんかよりもよっぽどストレスに効く。 どんどん主婦らしくなる自分に気付いていながらも、全く悪い気はしない。それで子供が元気で健やかに育つのならば。 ちゃぶ台の前に座った子供がせがむように自分を見つめているのに気付き、阿部は大きく口を開けた。つられて、涎が垂れそうな子供の口も大きく開く。 「うまそうっ」 「う、うま そっ」 定番の掛け声の後、二人は顔を見合わせて笑いながら掌を合わせて言う。 「「いただきますっ!!」」 はふはふしながら入る限界までカレーを口に押し込む子供を見つつ、阿部はほうじ茶を二つのコップに注いだ。 『……トラーイク!……はし、本日……目の、三振です』 アナウンサーの声と共に大きな歓声が上がった。阿部のほうじ茶を注ぐ手が止まる。画面の中の投手は帽子を脱ぎ、袖で額の汗を拭っているところだった。 「ふぁ ぱ?」 子供の声に我に返りちゃぶ台へと視線を移すと、子供の皿のカレーがもう殆ど無くなっているのが分かった。早食いの大食い。こんなところまで似てやがると、阿部は思わず苦笑する。 「おかわり?」 阿部の問いに答える代わりに、子供は残りのカレーを大急ぎで口の中に入れて、頷きながら空になった皿を阿部に差し出した。 「ちゃんと噛んで食ってっか?」 「ふぅ、ん」 コクコク頷きコップのお茶をゴクゴク豪快に飲む子供の頭を軽く撫でて、空の皿を持ち阿部は台所へと立ち上がった。 「ほら、もっとゆっくり食え。まだおかわりあっから」 「うん!」 嬉しげに、しかしさっきと変わらぬ勢いでカレーを頬張る子供の様子を見て、呆れるよりも自然と顔が綻ぶ自分に、こっそり溜息を吐く。阿部は少し冷めたカレーを漸く口に入れた。 スパイシーさよりも素材の味がしっかりしている、甘口のカレー。昔は思いっきり唐辛子が効いているのを汗をかきかき食べるのが好みだったのに、変われば変わるものだと思う。 『最終回、……の攻撃……打者は3番……、本日……のタイムリーヒットを……』 ここで抑えれば勝ち、か。踏ん張れよと心の中で、阿部は画面の中の投手にエールを送った。 「あのね、なげる、より うつのが、かっこいい って」 腹が落ち着いたのだろう、スプーンでカレーの山を崩しつつ、子供はTV画面に見入っていた阿部に話しかけてきた。 「へぇ」 「うつ ほーが、かっこいー って、みんな いう」 TVから歓声が上がり、二人が画面を見ると高く上がったフライをファーストがキャッチしているところだった。ワンナウトです!とのアナウンサーの声がした。 子供の視点から見るのであれば、守るよりも攻めている側の方が楽しそうに見えるのは当たり前だ。実際、自分も幼い頃はそうだったなと、阿部はリトルリーグに入る前を思い返した。 「ぱぱ、は?」 「ん?」 子供は阿部の顔を覗き込んで、大きな目をパチパチさせた。 「なげるの、と うつ、の どっち、すき?」 「投げるの、だな」 「アレ?」 阿部の返答に子供がTV画面を指さしたその先には、振り被って硬球を投げた投手とそれを空振りして体勢を崩す打者が映っていた。さっきよりも大きな歓声が上がる。ツーアウトだ。 「『アレ』じゃなくて『とうしゅ』な。投げる人」 「とう、しゅ?ぱぱ、とうしゅ すき?」 最後の一球になるか、興奮気味に喋るアナウンサーの声と正面を見据える投手の表情はアンマッチだったが、阿部には投手の集中が沁みるくらいに伝わってきていた。 この子供と同じ髪を瞳を持つこの投手は、深呼吸をして大きく振り被った。TVから揺れるくらいの歓声を聞き、阿部は画面から子供に視線を移して小さく微笑んだ。 「……ああ、スキだよ」 【続く】 10/04/08 |