註:『早春賦』は阿部と三橋が高校を卒業して邂逅するまでのお話です。
二人は新しい人間関係に取り巻かれ、その中で彼女が出来たりします(男女の絡み描写はありません)。
オリジナルキャラも出てきます(多分)。
それでも大丈夫な方はスクロールしてご観覧下さい。連載になります。





























早春賦


   1
 人生の岐路なんてそれこそ人の数以上にあるだろうけど、オレが生きてきた中での岐路は今までに一つしかない。そこで選択した今の路を後悔しているかと訊かれれば、そんなことはないと言い切れる自信がある。アイツ以外にならば。

 もし三橋に今、そう問われたら、オレはどう答えるのだろう?

     *****


「もう移動せぇへんかったら、間に合わんで」
 第一講義棟の窓から遠くに見えるグラウンドをぼんやり見ていたら不意に声が振ってきた。人気の無い教室の入り口で女生徒が一人こっちを向いている。名前が出てこないが、多分同じ学科で出席番号が近い女子だったように思う。
「……おー」
 未だ関西弁に慣れず、独特なイントネーションを耳にする度に埼玉から遠い地に居る自分を実感する。そして、自分が今一人である事も。
 広げていたプリント類を片し、鞄に詰め込むともう一度窓の外を見る。まだ2現目前だから人が居る気配は無く、初夏の日差しでカラカラになっているであろうマウンドに砂塵が舞っていた。水を撒いてやらないと、と思った自分に苦笑する。
 もう、野球と真剣に向き合うのは一年前に止めたのに。
「ちょー、はよーに!」
 そう言い捨て痺れを切らして駆け出したその後姿を見て、阿部は時計に目を遣った。次の授業開始まで3分を切っている。そして2現目は基礎実験だった。
「やべっ」
 実験はちょっと遅れただけでペナルティが付く。8個で単位を落とす事になり、必修だからそれだけで留年決定だ。階段を2段飛ばしで駆け下りると女生徒を余裕で抜かした。途端、後ろから高い非難の声が背中に降ってくる。
「うわっズルッ!」
「腹下ってトイレ篭ってますって、言っといてやる」
 つっても、名前知らなかったんだ。……まぁいいか、間に合うだろう多分と、自分の胸の内で自答する。
「あほぉー!」
 大分引き離してしまったようで、罵声が遠い。汗を後ろに飛ばしながら、阿部は人を避けるステップを踏み廊下を駆ける。息を切らせて実験室に飛び込むと白衣を着た学生らが雑談に興じていて、まだ教壇には誰も居なかった。セーフだ。時計を見ると定刻まで後30秒程だった。
「あべー、こっちや」
「おー」
 実験パートナーの男子生徒が手を振っているところへ、ハンドタオルで汗を拭いつつ向かう途中でチャイムが鳴った。
「席に着けー、席におらん奴は手ぇ挙げろ」
 教壇を振り返ると教授と助手が部屋に入って来ていた。教授が放った在り来たりのボケに学生らが沸いているところへ、件の女生徒が駆け込んできた。
「す、すんませんっ……お腹下って、トイレ篭ってましたぁ!」
 息を切らせながらのその台詞に学生達は爆笑し、教授も苦笑いをした。
「それはしゃーないな、今回は見逃したるわ。席着けぇ」
「はい」
「今日の、実験は酸塩基滴定ですー。実験の、際には必ず……」
 通りすがり女生徒に睨まれた気がしたが、気付かない振りをしておいた。笑いの余韻にさざめく実験室内に助手の何処かたどたどしい説明が響く。阿部は丸椅子に座りながら白衣を着込み、窓の外を見遣った。そこには教室の周りに植わっている木々しか見えない。グラウンドが視界に入らない事に安堵すると共に若干の寂しさを覚え、その違和感に阿部は胸を突かれた気がした。
「おい、先生こっち見てはるって。前向いとけや」
「お、おお?」
 前に向き直ると助手の説明は終わっていて、教授が最後に注意事項を言っていた。
「劇薬扱うからなー、皮膚に触れんように気ぃつけろ。万一飛ばしたら直ぐ水で洗え」
「……オレ、薬品取ってくる」
「おっ頼むわ」
 違和感に気付くと同時に脳裏へ浮かんできたあの夜の映像を振り払う為に、阿部はテキストを睨み英字で書かれている薬品名を頭の中に叩き込んだ。

     *****


 引退式の夜にグラウンドで落ち合った。二人だけで。呼び出したのは三橋だった。
 昼間の賑やかさが嘘みたいに静まり返っているグラウンドは、見知った場所ではなく知らない何処かに感じられる。マウンド上の姿を見て、三橋は慌てて駆け寄ってきた。空を泳ぐように走り寄るその様子を見て阿部は知らず苦笑した。
「お、遅れ て、ごめっ!」
「いや、オレが早く来過ぎただけだし」
 外灯は無くとも月明かりでお互いの姿は十分に確認出来た。三橋の息が整うまで阿部はシャドウピッチングを繰り返す。18.44m先のホームベース向こう側のサイン通りに投げられる、この投手と組めた事を誇らしく思う気持ちが静かに湧き上がって来て、阿部は無意識に奥歯を噛み締めた。
「もう、ここで投げねーんだって思ったら、やっぱ寂しい?」
「すこ、し」
 ここで投げられなくなるのは寂しい。いや、それよりも実感が無かった。傍に退いた阿部の代わりにマウンドに立つ。ホームベースの向こうには誰も居ないが、目を閉じると阿部が構えている姿が浮かんだ。大きく振りかぶって、手の中の空を投げる。
「ナイボッ!……今のは、スライダーか?」
 正解と言う代わりに、はにかんだ笑顔を向ける。今から切り出す事を思い、三橋の心臓は早鐘を打ち出していた。緊張をほぐす為か、何度もシャドウピッチングを繰り返すその様子を阿部は黙って見守る。向こうから話があるのも、このマウンドで二人で話す夜なんてもう来ないのも分かっていたから、三橋の好きなように話させてやりたかった。
「……オレ、す推薦 で、大学 いけそー、で」
「おう、スゲーじゃん!」
 十数回空投げ込みをして阿部に向き直ったその顔は、今まで見たどの三橋よりも真剣で静かな決意に溢れていて、静謐な今夜の月みたいだ、と阿部は思った。三橋が袖で汗を拭いながら大きく息を吸った音が、夜気を震わせた。
「お おオレ、大学 でも、投げる カラ」
 沈黙が二人の空間を支配する。阿部は視線を落とし、三橋の胸元をじっと見詰めていた。呼吸を整えようとして、そこは時折大きく上下した。
「だから、阿部 君 ……で、できれば、オレと」
「ゴメン」
 必死で搾り出された言葉に被せるように言い放ち、視線を上げてその顔を見詰める。三橋の表情からは全ての感情が抜け落ちているように見え、詰まりそうになる胸から何とか台詞を搾り出す。いつか言わなければと思っていた決別の言葉を。
「オレ、もう、工学部に進路決めてんだ。第一志望は関西にある。野球は、もう一番には、出来ない」
 三橋の顔にはまだ何の感情も浮き出て来なかった。
「ゴメン、な」
 もう一度零れた謝罪の言葉にも三橋は無反応だった。今更のように呼吸が苦しく鼓動が激しくなる自分の身体に、阿部は戸惑いながらも全身に力を込めて最後の言葉を告げた。
「これからは、オレ以外を見ろ」
 三橋の目が一瞬大きく見開かれ、身体が細かく震えたかに見えた。が、暫くして開かれた口からそっと吐き出された言葉は、震えていなかった。
「……うん」
「三橋」
「今まで、ありがとう 阿部君」
 差し出された右手をそっと阿部は握った。三橋の手は暖かくも冷たくもなく、そして指先の胼胝を確かめる間もなく阿部の手から抜け落ちていった。
「じゃ、オレ 帰る、ね」
「あ、あぁ」
 そこまで一緒に帰ろうと言いかけた言葉は、すぐさま駆け出した三橋の背中に消えた。
 出切れば、自分から切り出したかった。進路を決めてからずっと言おう言おうと思っていて、やっと言えた安堵感よりも形容のし難い喪失感の方が遥かに強く、ともすれば座り込みそうになる身体を阿部は意識して支えた。
 頭上を見上げると、雲ひとつない夜空に満月が浮かんでいて、真っ直ぐに自分を見て同じ進路をと告げた三橋の表情が思い出された。今、三橋はどんな顔をして帰路を走っているのだろうか。泣いていなければいい、ぼんやりとした頭でそう思った。

【続く】

08/27/08


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